その他の話題
平成19年11月
永平寺大和尚の生家

吉井には「史跡」が多くあります。これは永平寺の55世「大和尚」の生家となってます。大本山ですからね。「大和尚」が曹洞宗でイチバン偉い人なんかしら・・?
庚申塚

江戸時代庚申信仰が流行り、街道などあちこちに庚申塚が建てられたと云います。本来庚申信仰は仏教や神道とは関係ないため、明治になってからは政府によって取り壊し命令が出たと言います。でも高崎近郊には庚申塚が多く残っており、藤岡には庚申山もあります。これは吉井の上奥平にある百更新です。以前は大変荒れた「遺跡」でしたが、今は立派な登路まで出来ています。
無縁仏

人間の最後の敵は「宗教」でしょう。現在の最大の敵も「宗教」です。何故かとても暗いのです。ここは高崎市・観音山の西の果てにある乗附林道の西の果てです。「参界萬霊有縁無縁の塔」とあります。ここを通るとそれだけで暗くなります・・・
廃屋

観音山の奥には「廃屋」もあちこちにあります。この廃屋のある付近には犬のブリーダーの小屋があって沢山の子犬達の悲しい声が聞こえて、もう通れません・・・チロって幸せな犬だとつくづく思う・・・
宋伝寺界隈

宋伝寺界隈と言っても田舎の更に鄙びた田舎道(吉井町上奥平)にあります。曹洞宗の「禅寺」です。傍にバス停がありました。でも1時間に1本は通ることになってました。バスってこの辺で見たことはありませんが・・
富岡市蕨界隈

富岡市蕨地区は高崎市に隣接する里山、田園地帯です。今頃は秋の真っ盛りなのですが、今年は全然紅葉はせず、緑の濃い風景が拡がっていました。柿の実だけが秋を感じさせるものでした。で、蝶も沢山飛んでまして、中でもツマグロヒョウモンが無数に居るのには複雑な感じです・・
観音山奥の秋

観音山ではようやく紅葉して来ましたが、既に寒さで青葉からいきなり枯れ葉になっているものもあり、このままズルズルと「秋の紅葉」が綺麗にならないで冬になってしまうのでしょう。
富岡市蕨から妙義を望む

今日も良い天気でした。昼頃富岡市蕨を訪れると、得成寺という真言宗の寺があってそこから見る妙義は素晴らしいと教えて貰い、登ってみました。秋晴れの妙義山遠謀は素晴らしい景観でした。右手に見えるのが得成寺です。
井上奥平の石鐘

今日は帰りに先日見られなかった「吉井町指定重要文化財・上奥平の石鐘」を見て来ました。本当に苔むした石が少し並んでいるだけです。でもこの辺では最古のもので寛永年間の建立とのことでした。江戸時代初期ね。
里芋

富岡市蕨では歩いてると畑で仕事してるおばちゃんが「里芋持ってくか?」というので少しもらいました。でも「八つ頭」の倍くらいな巨大な芋で3ヶ貰ったらチロくらいありました。「里芋」でなくて何とか云ってたけど良く聞き取れなかった・・・
藤木分岐のお地蔵さん

少し前まで昼間仕事、夜ジョギングしてましたが、気分も暗くなるし、面白くもなく、体調も悪化では意味ないので、昼間歩くことにしました。でも高崎近郊の丘陵地なので、里山は豊かだし、アップ・ダウンも
多いので良い運動になります。ほんの1−2時間ですけどね。吉井町、安中市、富岡市の3地域が接する「地方道・藤木高崎線」の分岐には昔からお地蔵さんがあります。何時も新しい前掛けとか着物を着て花が飾ってあったり、おもちゃが置いてあったりします。一体どんなお地蔵さんなのか、誰かを祀ってあるのか分りません・・昔榛名山の山奥に千羽鶴、花が何時も生けてある祠がありました。あの1971年の忌まわしい事件の後でした・・でももうとっくに取り壊され、別荘地になってます。でもここはその頃からずっとお地蔵さんが立ってました・・
吉井町の「穴大黒」

ここは観音山遊歩道にある「穴大黒」です。吉井町指定史跡です。でもここは昼なお暗いうっそうと木が生い茂った林内にあり、冬とか早春以外は訪れる人も稀なのではないかと思います。薄暗くて何もないとこなんか誰も来ませんよね・・でも元禄年間のものなので、300年は経っているのか・・・
富岡・桑原地蔵

今日は藤木分岐から富岡方面へ降りて見ました。この辺は産廃処理場、射撃場、ヤクザが道の真ん中に車停めて土地物色など危ないとこですが、さっさと通過、すると藤木分岐と同じような赤い服を着せられたお地蔵さんがありました。ここは傍に小さな石碑があり「大正13年」と彫ってありました。上の方の地蔵もあの忌まわしい事件の鎮魂碑ではないのか・・
フェラーリ?

桑原地区の東はゴルフ場です。坂を下って蕨地区に抜けるとこでショーウインドウ?に飾ってある「フェラーリ」を見ました。
稲木

蕨地区へ抜けると稲木に干した稲を脱穀の真っ最中でした。これは未だ脱穀前の稲木に干された稲です。都会では中々こんな風景は見られんでしょう。
谷戸

藤木分岐付近から見た蕨地区と上奥平地区の間にある谷戸遠景です。こう言う里山が保存出来る世の中でなければ・・周りはゴルフ場だらけですけどね・・
京都の紅葉1

久し振りで京都の紅葉を見に行って来ました。さすが季節なので、有名寺院はごったがえしていましたが、あまり人の来ないとこではゆっくり写真を撮ることが出来ました。これは高雄・神護寺の紅葉です。「里山観察・・」と関係ないけどネタないので貼ります。
都の紅葉2

これは妙心寺の大法院です。秋の特別公開でお抹茶も頂いて来ました・・・もっと色づいていれば更に素晴らしかったのですが・・
京都の紅葉3

これも東山のお寺ですが、やはり観光客は沢山来てました。でも金閣、銀閣の比ではありません。静かな中庭が撮れました・
鷹匠

「哲学の道」は観光客でごった返して居て通りたくなかったが、見たいとこがあったので仕方なく下った。案の定無作法で礼儀を弁えないギャルなどが跋扈していて歩き難かったが、空き地で若い?女性の「鷹匠」が訓練して鷹に餌をやっていた。猛禽類というのは素晴らしいもんだ・・
神護寺の紅葉1

今日もネタないし、折角京都で写真一杯撮って来たので貼ります。先ずは高雄・神護寺です。
神護寺の紅葉2

神護寺は真言宗のお寺です。そう空海・弘法大師のお寺なのです。弘法大師が使ったという「伝説」の硯石もあります。
神護寺の紅葉3

神護寺は階段が多く、登りが多いのですが、老人の参拝が多いので、皆さん大変そうでした。紅葉の名所で沢山の観光客が来ます。四条からバスに乗りましたが、地元観光客で混んでやっと座れました。観光バスも沢山来てて大変でしたよ・・
神護寺の紅葉4

神護寺の山門です。ここに辿りつくまでかなり登ります。神護寺には和気氏公墓があります。東大寺を建立した聖武天皇の娘孝謙天皇が退位したのち重祚して称徳天皇となりますが、そのとき弓削の道鏡を寵愛して皇位につけようとします。天皇は独身であったため、子供が無く「宇佐八幡」の宣託として道鏡を後継としたかったのですが、和気清麻呂が「皇胤以外は皇位についてはいけない」と言うご宣託であったと報告したため道鏡の野望は断たれます。従って和気氏は皇室を救った忠臣であったのです。その後称徳天皇は病を得て52歳で崩御されました。
神護寺の紅葉5

昨日紅葉を貼りましたが、もう一枚貼ります。全山紅葉で真っ赤・・と言うわけには行きませんでした。今年はイマイチです。
西明寺

やはり高雄には空海の弟子が開いた西明寺があります。静かな佇まいのお寺でした。更に奥には「世界遺産」の高山寺がありましたが、ここは有名な「鳥獣戯画」があるそうです。西明寺では水面に落ちた紅葉を撮りました。
妙心寺

妙心寺は大きなお寺です。その中で大法院を訪れました。観光客は少なく静かに紅葉が楽しめるところでした。
詩仙堂

これは東山の詩仙堂です。この一角は大原や叡山への入り口で市街地の東北に位置し閑静な住宅街の中にあるため静かな佇まいです。直ぐ南にある銀閣寺の喧騒はありません。
圓光寺

詩仙堂から直ぐの徳川家康ゆかりの寺です。これは境内にある鐘楼です。
詩仙堂2

順序がマチマチですが、これは詩仙堂の中庭です。ここは江戸時代の文人石川丈山の隠棲地とのことです。ここでも静かな庭園が見られました。
永観堂

ここはさすが有名で観光客も多く大変でした。もう午後遅く陽も陰っていたのですが、中庭が素晴らしかったので撮りました。
南禅寺

南禅寺まで辿りついた頃はとても疲れてしまいました。有名な南禅寺三門です。ここも観光バスがひしめいて南側の疎水の方から抜けましたがそこから西院まで歩くのがもっと大変だった・・・
仁和寺

仁和寺は「世界遺産」なのだけれども人気ないのか観光客は少なかった。でもなかなか都の古刹というところが素晴らしい寺です。
京都は受験に行った頃は東京駅から「特急」で8時間掛かった。でも直ぐ新幹線が出来て便利になったが、10年ほど前からは「のぞみ」が走って高崎から日帰りしたもんね・・車でも何度か行ったけど中央道が全通する前は「伊北」からのらねばならず、大変だった。全く便利になったもんだ・・
仁和寺の五重塔

京都って昔は交通事情が最悪でタクシー乗って渋滞嵌ったらどもならんかった・・今でも三条、四条通りは混雑ひどいね。まぁ最近は有名寺院の観光季には大渋滞だけど他はあまり来ないので良いかも。金閣、銀閣、二条城、三十三間堂(蓮華王院)くらいかね。しかもホテル高いし(泊まったことない・・あ!一度ある。宇治の「東和精密」社長にホテルとって貰ったことがあったっけ・・)食い物高いし・・(東和精密社長について行ったら「どびん蒸し」3回食えた!・・ハハハ・・)だから京都の有名スポット近くのファーストフード店では良く外国人見るし、奴らバスとか自転車を利用するし、宿も安宿知ってんだよね・・
永観堂の紅葉2

東山の「永観堂」を貼ります。
永観堂3

やはり写真は構図が良くて、色が綺麗なのが人気あるが、今回はとりあえず紅葉撮り・・であまり良いのがなくて・・室内から撮るとやはり三脚でもないと上手く撮れない・・
永観堂4

永観堂の紅葉また貼ります。
中央アルプスの稜線

で、帰りに中央道「駒ヶ根SA]付近から中央アルプスの稜線が見えた。あまり見えないけどここからは宝剣あたりの稜線が見える。むかーし登った・・
富士山

そして小淵沢IC出ると八ヶ岳横断道路(今はそう云わないらしい)から見える富士が素晴らしい。近くで見るよりこの辺の方が「霊峰富士」という感じがしますね・・
道祖神

最近は寺尾から吉井町上奥平付近の丘陵地を歩いてます。起伏のある林道の約8Kmくらいを1時間ちょっとで歩き、良い運動になります。高崎市郊外は道祖神や庚申塔がとても多く、これらの信仰が篤かったことが偲ばれます。道祖神とは基本的に道や分かれ道、土地の分かれ目などを示す神で、主に石、また杖に象徴され、根元的には、石と木への信仰だったといわれてます。また魔物を撃退することのできるという伝承から、防ぎの神としての道祖神でもあるが、本来は生殖による豊饒や豊作を示す田畑の神であり、それが石神であったため道祖神に習合したとも考えられるといいます。これは上奥平の林道の分岐にある道祖神で未だ石に刻印された文字がはっきり読み取れます。
道陸神

道陸神は道祖神と同じものですが、これも吉井町上奥平にありました。やはり道行く人の安全を祈願して作られたといいます。こう言う信仰は「迷信」と違って人々の心を安心へ導き、平安を願う気持ちで世の中を平和にしたことでしょう。しかしこれ等が信仰された時代は今もそうですが凄まじい政治の貧困時代でこんなものを信じるしか心の拠り所がなかったのかも知れません。でも今だって心の平安が容易く得られる時代であるとも思えませんが・・
館の百庚申

庚申塚は道祖神と同じく信仰の対象で身の安全、災いを避ける祈りから多数の塔が残っています。この「館の百庚申」は高崎市の指定史跡らしいですが「指定」だけらしくただ荒れるに任されてます・・これは寛政年間に作られたとのことですから約200年前徳川11代将軍家斉の頃で松平定信の「寛政の改革」頃です。当時は高崎近郊の有名な書家のものが100基あったとのことですが今は60基ほどが残っており、書家の名前も確認出来ないという。ところで家斉は15歳で将軍になり69歳で亡くなるまで側妾40人、子供55人というからまず強健な体を持っていたと思われます。その21女溶姫が加賀藩前田家へ嫁いだ際敬意を表して前田家が作ったのが東大の赤門(御守殿門)という。
道祖神2

昨日に続いて寺尾町館の道祖神です。これはかなり大きなもので、建立時期も読み取れないほど古い。住宅街の只中に建ってます。昨日唐突に徳川幕府の話になりましたが、昨今もあの頃も「利権」絡みで世の中が腐敗するのが変わらないと言いたかったのです。10代将軍家治は世継に子家基を立てていましたが双方とも田沼意次に「暗殺」されたらしい・と云います。田沼に押し立てられたのが家斉でした。そのお陰で後年家基らの「怨霊」を懼れ、それに付け込んだのが下総「法華経寺」の日啓でした。日啓は将軍の弱味につけこんで大奥にも取り入り、莫大な財をなしたといいます。当時は「飢饉」や「天変地異」で凶作になっても最下層の農民を救うことは二の次で専ら上層部の蓄財や将軍家の散在にうつつをぬかしたようです。政府はどこかの大臣が「宴席」に出た、出ないの攻防をやって、役人は「収賄」で逮捕され・・変わってませんなぁ・・
チロ似

寺尾町外れから岩崎と上奥平へ抜ける分岐にチロに似た犬が居ました。とても元気に吠えていました。でもこの犬だってチロの方が何倍も幸せだと思います。だってチロは鎖につながれたことなんかないんですからね・・