「高崎観音山丘陵の森の歴史」資料          西野取材メモ

1) 群馬の林政史 中島明著 みやま文庫 より
   @江戸時代の林政
       入会地
       御林(おはやし)・・・幕府、諸大名、旗本などが直接管理する林
         林業経営上の条件を備えた林
         現在の保安林に相当する森林(環境保全林)

   A高崎藩の御林管理
      
高崎城主 松平輝貞(享保2年1717)越後国村上城から
       領内各地の山林は、手入れが行き届かず荒れ放題であった。
       高崎城と高崎宿が中山道の要地に位置し、さらに三国街道、日光例幣使道が分岐するところにあったので、
     各地の大名はいうまでもなく、多くの旅人が行きかう場所であった。そこで、輝貞は城を中心にして周辺の山林、
     あるいは並木道を整備して、優れた景観の高崎を作り上げ、人々に好感をもたれるようにするため、荒れ果てた
     山林を美林に取り立てる作業に取り掛かった。
       着任早々、有能な藩士を抜擢して山奉行とその下役に任命させた。
    
御林の管理
       伐採は、厳しく管理され、江戸藩邸、高崎の役所関連施設、藩士の家の修理や新築のときなどのみ。
       江戸には烏川でいかだを組み、利根川経由で送られた。
       産出される副産物は領民が自由に入山し、無料で気ままに採取することができた。
       蕨、葛の根、山芋の類、マツタケなどの茸。石炭、陶土、白い石で竈や七輪製造。
       落ち葉は「野手札のてふだ」を藩役所から購入して下草かり、落ち葉を採集。

   百姓預林と百姓林
      「百姓預林」・・・原野の山林の植林、保護管理は農民が許可を得て請負、副産物の採取も自由だが、立ち木の
               所有権は藩にあるというもの。
          寺尾村に72町歩余、野付村におよそ40町歩、石原村に14町歩余、その他、上里見、浜川、中里美、
          菅谷など
      「百姓林」・・・下草銭を藩役所に納入すれば、農民が管理し立ち木の処分も持ち主の自由。

2) 高崎営林署史 創立101年記念より 高崎営林署発行 (平成3年)
  @ 江戸時代
      山名・・・現国有林赤岩山と城山団地・・・天明2年(1787)高崎城主松平右京太夫が山名村を分領してから
             森林を重んじ管理監督に励んで美林になった。
       その他・・・野附(十貫山国有林)、石原、寺尾(長坂国有林)は村。片岡は郡。
             いずれも、厳重な管理が行われていた。
          上記とダブるので省略。

  A 森林造成
      江戸時代以前から全山(高崎藩の山のこと)で松を仕立ててきた。
        一部に杉を造林したところもあるといわれる。
        野附の沢スジの杉は植林されたが生長不良だった。
        松茸は品質良好なものが採れたといわれる。長坂国有林(館、長坂)の2箇所を禁伐林とした。
        高崎藩主に献上した。

  B 文政年間の高崎城下の大火で家中屋敷8百軒内の400軒が焼けた。
       この復旧のため天保年間(1830年代のころ)野附から観音清水の付近に至るまで全部伐採した。
        その後の木は下種発芽したものがほとんど。

  C 大正時代の記録
     十貫山国有林のようす
         地味は浅くやせており肥沃地に適した種種は生育不良であって大部分は赤松の純林である。
           植栽林(20年生内外)、天然生林(一部は100年生内外)を合わせて20HA内外残存しているが
          生育は害して不良であるという。
           その他、一部に造林した扁柏(ヒノキ)は窪地の山背に近いところは成長はやや良好であるものの
          その他の地に植えたものは不良であるという。
           また、抱擽?は不良であって近年、天然性雑木と混交林を形成し、成長は中庸であるといわれる。

     寺尾苗圃
         寺尾に民有地を借り入れ(0.8HAほど)碓井事業区植栽用苗木であるスギ、ヒノキなどを養成した。
            山行苗木5万本、幼苗30万本など。
            昭和に入って緑化事業所となり高崎営林署管内の苗木生産は行わなくなった。

3)飯島さん(元高崎営林署長)のおはなし
    明治時代に国有林になった。
     高崎では4月に毎年、高崎営林署主催の植樹祭を観音山丘陵で実施していた。
     5月連休ころは、丘陵にも人が多く入るので、山火事を防ぐための見回りにでかけ、休みがなかった。
     観音山丘陵にはスギやヒノキも植えてある。赤松は根が浅い。
     山は放っておいては駄目で手入れいしなくてはいけない。

    カッパピアも、一度にやるのでなく、エリアに分けて段々にやっていったらいいでしょう。
    
4)高崎漫歩より 土屋喜英
   和田時代の高崎
      エノキ・・・榎森は中央小学校の南にあった「ボウズ山」から眺めて南東方向に赤坂山という小高い山があり、
           榎が多かったことから榎森といった。
            後に高崎城が築かれて城内に入り、榎郭と呼ばれた。
            榎は並榎、江木などの地名に見られるように至るところに生えていたようである。
      松・・・烏川に沿っては松の木が繁茂し、河原は延々と松林が続いていた。
         井伊直政が箕輪から城を高崎に移したとき、初め「松崎」という地名を考えたといわれる。
         それほど松が多かったのであろう。


5) 高崎の散歩道 第十一集より 白き花のさと タウトの散歩道 吉永哲郎
     5月中旬に咲くアカシアの花。野附から鼻高にかけての山すそにこの花がさく。
     甘美な花の香りが、さとにみちあふれる。
     外来の木で、街路樹として用いられたりするが、日本では荒地によく茂っている。
     ・・・・アカシアが原生していたのではなく、明治以来、この山脈にあった炭鉱の坑木の財として植えられた
     ものである。


6) 平方秀夫さんの詩と戦前戦後の山名丘陵の生活など
    平方秀夫さんは根小屋で生まれ育った方で詩人として、当時の山の様子などを詩にしておられます。
     この度、改めて戦中戦後当時の山のようすを電話取材したのでご紹介します。
   〈松について〉
     松はたくさん生えていた。
     亜炭といっしょに、松が荷馬車で運び出され、瓦を焼くのに使われた。
     戦争中、松根油をとって、松が枯れた。
     松葉は、焚き付けに使うので、沢山とって俵のようなものに入れて取っておいた。
     風呂の焚き付けにも使った。
     正月のお飾りに使うので、榊と松を採りにいって飾った。榊は神棚に飾った。
   〈山から取った食べ物〉
     わらび、ぜんまい、竹の子、
     松茸はほとんどなかった。(平方さんは秘密の場所を知っていた)他のキノコもあまりなかった。
     セリは根っこを食べた。おいしい。
     山ミツバというのが金井沢の上流に生え、普通のミツバよりおいしかった。
     山百合の根は花の咲いているときはまずい。枯れてから冬に採ったものがおいしい。
     ヤマイモはあまり採れなかった。
   〈花や木など〉
     山つつじ、藤、ヤマザクラ(切らなかった)、山百合
     雑木は10年〜15年おきに切って利用した。根っこから再生する。
     竹やぶは各戸にあった。北風よけ。たけを使って竹垣、お蚕のかごを作った。
   〈農業〉
     米と麦の二毛作
     牛と馬を飼っていたので、草が必要だった。
   〈その他〉 
     うなぎも取れた。