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    人生の恩師
              群馬県医師会報2010年9月号特集号掲載
 成田空港で旅客機を見ていると、遠い日の記憶がよみがえる。太平洋戦争が勃発し、父が
中島飛行機製作所勤務となり大宮から大田へ転居した。
 この製作所で作られた大きな飛行機が道路の上を運ばれていた。
 1945年2月この工場が爆撃された。
近くの社宅の中に落ちた爆弾で出来た大きな穴の底に水が溜まっていた。
 同年4月大宮の街が爆撃され夜空が真っ赤になった。

 戦後、故郷の大宮小学校へ戻った。
 1年生の時のことである。
群馬訛りをからかわれたが、担任の大野先生が母親の様に優しくしてくれ救われた。
 放課後は木登りや釣りや川遊びで暗くなるまで遊んだ。見沼用水で泳いでいて溺れそうになっ
た恐怖は忘れない。
 牛の屠殺場を見たことがある。
牛は眉間を一撃され横に倒れ、頚部を切られ血液がどっと吹出した。
山積された腸が律動的に動いていた。
 電気機関車の模型作りに熱中した。
部品を少しずつ買い集めて組立てた。変圧器は伯父に原理を教わり自作した。
 6年時の知能テストの結果が良く担任の加藤キヨ子先生に中学に入ったら勉強しなさいと言われた。

 大宮東中学校に入学し近所の浦和高校生に英語を教えて戴いた。
 当時、目新しかった蛍光灯を買ってきて机の上に取付けた。
 ラジオに興味を持ち、まず鉱石ラジオを作った。
次に5球スパーラジオを秋葉原で部品を買って来て組立てた。
 海軍出身の担任の加藤先生からハーモニカの手ほどきを受けた。
 運動部は小学校の時から柔道を始めていたので柔道部に入った。
 ある日学校の講堂で野口英世の紙芝居を見て感激し、医師を志そうと思った。

 浦和高校に入学し柔道部に入った。
練習後の夕食でお膳の上を空にして祖母が目を丸くした。
勉強せず寝てしまったので成績が落ち母が担任の小杉先生に呼ばれ、注意された。
柔道は諦めた。
 在学中、浦和高校はサッカー全国大会で二年連続優勝した。
昼休みはサッカー紅白戦に興じた。
現在、浦高九期会に参加し旧交を温めている。

 群大医学部進学過程では弓道部に入り二段を戴いた。
簡易楽器クラブに入りギターを習い始めた。
 英会話の勉強になるかなと考え米軍高級将校の住宅団地ワシントンハイツ(現代々木公園
 前東京オリンピック選手村)のPX(post exchange米軍基地売店)でボーイのアルバイトをした。
 米軍将校の奥さんが買ったものを車まで運ぶのが仕事だった。
しかし私どもボーイとはなかなか話をしてもらえず英会話の勉強にはならなかった。
日本では高価なバナナなどが房ごと紙袋に入っており日米の生活レベルの差を知りカルチャーショック
を受けた。 
又、当時まだ日本では販売されてなかったコカコーラを飲んだ。薬臭かったのを覚えている。

 医学部専門課程では、剣道部、硬式テニス部、ギタークラブに所属した。
3年の夏休みに、ベトナム戦争酣の頃、米軍病院でエクスターン(医学実習)をした。
 医学生は将校扱いで、将校食堂で食事した。メニューの豊富なのに驚いた。
将校と兵隊の食堂は別でも食べるものは同じと聞いて、アメリカ社会の平等性と底力を身を持って
知った。
 日系二世のヤマグチ医師に引率されて病棟を回診した。
当時この病院のインターンであり、ここでのエクスターンを紹介して戴いた福地義之助先生
(現:順天堂大学客員教授)が通訳と解説をしてくれた。
 カルテは医師が録音したものを秘書がタイプしていた。
 米軍病院では既に心血管造影が行われていて黒人医師の検査を見学しカテーテルを初めて見た。
この研修でアメリカの医療レベルの高さに強い感銘を受けた。
将来、アメリカの病院のレジデントになりたいと考えた。

 インターンの時、アメリカでのレジデントに必要なECFMGの資格を取った。
レジデント病院を調べて希望の病院は無給だったので諦めた。
 ポリクリや臨床講義で鴫谷亮一先生に接し、その人格に惹かれて第二内科へ入局した。
同級生の木村盛彦君(前群馬がんセンター外科部長)とドイツ語の生化学成書を輪読した甲斐が
あり第二内科大学院試験に合格した。
 第二内科入局後、鴫谷亮一教授から臨床に研究にご薫陶を戴いた。
教授が導入なされたカテーテル検査のお手伝いをした。
 大学院では冠循環の研究を命ぜられた。
実験では文献にないノウハウを知った。
例えば犬の肛門のタバコ縫合で悪臭から逃れられた。
 研究論文を英文で発表した。海外からの論文請求が98通あり教授に喜ばれた。
 実験中、先生から「瀬田君、努力していれば必ず将来報われる」と言われた。
先生のこの「努力」という言葉を私は信条にしてきた。
 1972年UCG(ultrasound cardiography:心臓超音波検査)に取組んだ。
「瀬田君、UCGの結果は」と教授に質問され不安と嬉さが入混じった複雑な気持ちでお答えした。
弁膜症患者のUCGデータを論文にして発表しUCGの信頼性が認められ、Life Workにと考えた。

 開業後もUCG検査を続けた。その後、多目的超音波断層機を導入した。
 1983年職員給与プログラムをBasicで組んで電子システムの利用を考えた。
機械がプログラム通りに動作した時の感慨は忘れられない。
 電子システム構築の歴史を「群馬県立心臓血管センター登録医大会」報告書に、又、電子カルテ
導入の経緯を群馬県医師会報‘01.10. No639「聴診器と電子カルテ」に載せて戴いた。
 2002年6月股関節症におそわれ、公立富岡総合病院整形外科小林敏彦先生執刀で手術
を受けた。
 松葉杖、車椅子生活でバリアフリーのありがたみを実感した。
経過をHP http://med.wind.ne.jp/setaclinへ載せた。

 私が現在あるのは人生のその時々に適切なご指導を戴いた、人生の恩師とも言える方々のお陰です。
 ここに衷心より感謝致します。

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