はじめに
耳は外界からの音刺激を電気信号に変えて(その場所を一般には受容器、耳では蝸牛と呼びます)脳に情報を送る働きをしています(図1)。「聞こえない」と言う中には1)この蝸牛に音が伝わらない,2)蝸牛が壊れて神経が音に反応しない、の2種類があります。1)は伝音性難聴と呼ばれ耳漏がでる中耳炎がその典型例です。2)は感音性難聴と呼ばれ老人性難聴、先天性難聴等がこの例で一般に[聞こえの神経が病んでいる]と言われるものです。難聴に対する20世紀の医療はその大部分を伝音性難聴の治療に費やし、その90%を克服しました。21世紀は感音難聴を克服する世紀と位置付けられ、また1990年代からその糸口である人工内耳が開発されました。ここでは難聴をどの様にして克服し、いかにして失われた「音」を回復するかについてお話いたします。
耳の働きは音を集めて、増幅して(音を大きくする働き)、受容器である蝸牛に伝える作用と伝えられた音を脳の共通信号である電気信号に変えて脳に伝える2つの働きがあります。前者は耳の外耳、中耳の働きであり、後者は蝸牛、聴神経の働きです。後者の働きを例えるならばマイクロフォンとコードに相当し、音を電気のエネルギーに変換し、伝える装置です。どちらの働きが悪くなっても「聞こえない」という症状になります。あなたの難聴がどちらに原因があるかは耳鼻咽喉科で聞こえの検査(聴力検査)を受ければ簡単に解ります。検査といってもいろいろな強さ、高さの音を出すオージオメーターから出た音をレシーバーで聞いて貰うだけで特に痛みを伴ったり、血を取る検査ではありません(図2)。
プールサイドで潜っている友達の名前を大声で呼んでも友達は気づかないことは何度も経験していると思います。音は空気の振動として水面まで伝わりますが、音は水が空気より重いためその境(界面)で99.9%反射されるため潜っている友達には呼んだ声は聞こえません。実はこの問題は耳の中でも起こる問題です。マイクロホンに相当する蝸牛で音を電気エネルギーに換える装置(有毛細胞)は水の中に浮いています。ですから外耳道から入った音がそのまま蝸牛に入っても99.9%反射されて大変効率が悪くなってしまいます。このような事がない様に実際中耳で約1000倍にも音が増幅されて伝えられています。中耳炎などでもし中耳の増幅機構が破壊された場合、正常の人の1/1000しか聞こえなくなり、すなわち難聴になります。
音を電気エレルギーに変換するところが蝸牛です。蝸牛では入ってきた音を2つの情報すなわち音の大きい小さい(振幅)と高い低い(周波数)を脳に伝えます。蝸牛は30mmの管状構造でカタツムリのようにその管が2回転半していることから蝸牛を呼ばれている。中耳に接した回転(基底回転)に分布する神経は高い音だけを感知し、頂点に近い回転(頂回転)に分布する神経は低い音だけを感じるようになっていてその間は高い音から低い音順にそれぞれ分布する神経が受持っている(図3)。振幅は聴神経を流れるパルス数で伝えられ小さい音ではパルス数は少なく、大きい音ではパルス数が多くなります。
外耳から中耳(図1参照)に生じるあらゆる病気は伝音性難聴の原因となるが、耳が痛く熱が出る急性中耳炎で代表されるような急性の病気は抗生物質など薬物によって治療すれば病気の回復とともに難聴は治ってしまいます。しかし同じ中耳炎でも慢性化し、鼓膜に穴のあいたままになったり、耳漏が止まらなくなった耳(図4)、さらに音を伝える大事な働きをしている耳小骨(図1参照)の破壊などが起こってしまった耳はもはや薬だけでは聴力を回復することは困難となる。このような耳には手術が必要となります。耳の手術の歴史は古く戦前より行われていましたが1960年以前は聴力を犠牲にして炎症をだけを押さえる手術法でした。1950年Wullsteinによって耳漏を止めるだけでなくさらに聴力を回復する画期的な手術法、鼓室形成術が開発されましたが日本で一般的になったのは1975年以降でした。手術原理は50年代に発表されましたが、その後手術をより完全なものにするために顕微鏡、手術材料の開発、術式の改良など多くに人の努力によって1980年代になり日本全国どこでも鼓室形成術が行われるまでに一般化しました。その意味で20世紀は難聴に関していえば、伝音難聴を克服した世紀と言えます。
1990年以前は補聴器を装用することが唯一の治療法であった。補聴器も科学の発展とともに一昔前弁当箱大であったものが現在は小さくなり耳の中に入りしかも高性能である補聴器が比較的安価に手に入るようになりました。ただ補聴器の問題点は販売店に法的資格、規制が無いため多くの人が町の電気屋、眼鏡店で購入していることです。一部の販売店では全国補聴器メイカー協議会に属して補聴器装用指導の専門知識のトレーニングを受けています。目が悪いからと言って他人のめがねをかければよく見えると思っている人はいないと思います。ところが補聴器に関しては「Aさんがこの補聴器が大変具合が良いと言っていたので私も買ったけどあまり良くないわね、やっぱり補聴器はだめね」などと言う人が皆さんの周りにも多いと思います。めがねを買うときには眼科で視力検査を受けてその指導の元に一人一人に合っためがねを注文するわけで補聴器も一人一人の聴力に合った補聴器を買わなければ使えるわけがありません。ぜひ耳鼻咽喉科を受診した上で全国補聴器メーカー協議会のマーク(図5)を掲げている専門店の紹介を受けて購入してください。
1990年に入って人工内耳と言う画期的な手術法が開発されました。この手術は壊れた蝸牛の変わりに聴神経を電気で刺激して音を直接脳に伝える方法です。蝸牛の働きの所で説明しましたように音は蝸牛で周波数別に分解され、周波数に従った聴神経が興奮することによって色々な音を脳に伝えるわけです。人工内耳の原理はこの蝸牛の中に極めて細いコード(最大22対)挿入して音源の周波数に相当する部位の神経を電気で直接刺激し興奮させ、音を脳に伝える方法です(図6)。複数の周波数で成り立つ音(自然界ではこのような場合がほとんど全てですが)の場合はどのような周波数から成り立っているかを感知し、さらに周波数間のエネルギー分布を感知し、その周波数エネルギー分布に従って各電極の電流の強さを変えます。このようにすることによって蝸牛がなくとも音を感知できるようになります。現在この手術は群馬県では群馬大学医学部耳鼻咽喉科で行っています。限られた紙上ですのでこの手術の細かな制約まで言及できませんのでもしこの治療を希望する方がおりましたら、ぜひ近所の耳鼻咽喉科を受診して群大耳鼻科を紹介して貰ってください。
終わりに
20世紀を終わるにあたり難聴に対してどうやら伝音性難聴は90%医療の手によって解決しようとしています。また補聴器のめまぐるしい発達によって多くの感音性難聴も解決しつつあります。さらに21世紀に向けて、補聴器では解決できなかった高度難聴者にたいしても人工内耳という新たな手段でより質の高い生活環境を生み出すことが出来るようになりました。この背景には動物の尊い犠牲の元に行われた地道な基礎医学の研究、医療材料、コンピューターソフト、集積回路の開発、電気部品の超小型化、などまさな現代の最先端の技術、知識の蓄積があってはじめて実現したと考えます。
人工内耳に関する相談、手術は群馬大学耳鼻咽喉科で行っております。
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